2016年御翼2月号その2

『イエスのように』――マックス・ルケード牧師

 

 イエスにとって、ペテロを愛するのはつらくはなかったのだろうか。いつか彼が、そんなやつは知らないと否定するのがわかっていて。どうやってイエスは弟子たちを愛することができたのか?
 その答えは、ヨハネの福音書十三章の中にある。「イエスは…弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」。あなたも知っているはずだ。今洗っている足がこれからどうなるのか、イエスはご存じだということを―。ローマ人兵士の剣が一閃(いっせん)するやいなや、脱兎(だっと)のごとく逃げ出すのだ。
 イエスがぼくたちの足を洗われるのは、ふたつの理由がある。ひとつは、ぼくたちにあわれみを与えるため。もうひとつは、ぼくたちにメッセージを伝えるためだ。そのメッセージとは、次のことにほかならない―イエスが無条件に恵みを与えてくださっているのだから、ぼくたちも無条件に恩恵を与えなければならない。ぼくたちがあやまちを犯す前からキリストのあわれみが与えられているのだから、ぼくたちも他人のあやまちに先だって思いやりを見せなければならない。キリストのまわりの者たちは、主の愛を微塵(みじん)も疑っていなかった。ぼくたちの周囲の人々にもぼくらの愛を疑わせてはならないのだ。
 イエスは足を洗う側だった。もてなされるにふさわしいお方が、ほかの者たちをもてなしたのだ。イエスが示したお手本の真髄は、人間関係の絆という橋を築く重荷は、弱い者ではなく強い者が負うということにある。罪のないお方が、足を洗うという意思表示を真っ先になさったのである。どうか、わかってほしい― 人間関係は、非のある者が罰せられるからうまくいくのではなく、非のないほうがあわれみをかけるからこそ、うまくいくのだ″、ということを……。
 マックス・ルケード『イエスのように』(いのちのことば社)より

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